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置き薬の活用法

●必要な医薬品をご利用いただき、お支払いはあとで

●水害・地震などの天災時の医薬品供給

●山間僻地の医薬品供給

●一人暮らしの老人など買い物がなかなかできない方への医薬品供給

置き薬の歴史

毎年夏になると日本各地の山嶽信仰信者は、越中立山登拝に集まってきました。その季節が終ると立山山麓の芦峅寺、岩峅寺の立山衆徒たちは、「配札檀那廻り(ハイサツダンナマワリ)」と称して日本各地の信者を尋ねて魔よけのお札や、また付近に産するヨモギ、キハダでつくった「よもぎねり」や「熊胆(ユウタン)」などの薬、それに死者に着せる経衣(キョウカタビラ)を良家の信者宅に預け、一年後に使われただけの代金を集める、という方法で布教活動の資金を得ていました。こうした販売法の習慣がその後の富山売薬の起源になったとも考えられています。

 そして、元禄3年(1690年)江戸城において、「富山のくすり」を一躍有名にする事件がおきました。三春藩主・秋田河内守が腹痛を起こし、そこに居合わせた二代目藩主正甫公が、常備のくすり「反魂丹」を与えたところ、たちまち痛みがおさまったというのです。この光景を目の当たりにした諸国の藩主たちは、その薬効に驚き、各自の領内で薬「反魂丹」を売り広めてくれるよう正甫公に頼みました。

この事件が「置き薬」(配置販売業)の発祥とされています。

 正甫公は富山城下の薬種商・松井屋源右衛門にくすりを調製させ、八重崎屋源六に依頼して諸国を行商させました。源六は、「用を先に利を後にせよ」という正甫公の精神に従い、良家の子弟の中から身体強健、品行方正な者を選び、各地の大庄屋を巡ってくすりを配置させました。そして、毎年周期的に巡回して未使用の残品を引き取り、新品と置き換え、服用した薬に対してのみ謝礼金を受け取ることにしました。

 これが300年来変わらず続いている富山売薬の伝統的なやり方です。この商法は先に利用してもらい、後で利益をいただくという意味で「先用後利」と呼ばれるようになりました。今のクレジットとリースを合わせたものといえるでしょう。利用者にとっても各種の薬をいつも手元に置いておける安心感、そして使った分だけ支払えばよく、こちらから出向くめんどうもない、と都合のいい販売方法です。また、この方法で一度取り引きができると、続けて買ってもらえる得意先定着化の有利性があります。

 ちなみに、「反魂丹」は備前の医師・万代常閑の先祖が、堺浦に漂着した唐人からその秘法を授かって作ったもので、正甫公自身が腹痛を起こした時に服用して平癒したという妙薬。正甫公は「人の病患を救う妙薬を秘しておくことは惜しい」と、天和3年(1683年) に常閑を招いてその処方の伝授を受けたとされています。

 一方、奈良県でも「置き薬」の歴史は生まれていました。

 文武天皇の大宝元年(701年)に大宝律令が制定された時に、併せて医療の制度も発布されました。この制度に従って大学、典薬寮、薬園師、薬園生を置き学生を教育し、薬の研究が行われました。

 またこの頃、葛城山で修行し吉野に入って大峰山を開山した役の行者・幼名小角が、木皮(黄柏)のエキスで「陀羅尼助」というくすりを作り、現在も家庭薬として残り、大峰登山者たちにも珍重されています。

 奈良朝に入り、天平勝宝5年(753年)、唐の名僧・鑑真が遣唐使とともに来朝し、唐招提寺を開きましたが、その際、「奇効丸」というくすりを伝え、光明皇后の病気を治したという記録が残っています。現在の「六神丸」は、この奇効丸にヒントを得て作られたものだといわれています。

 こうした古い歴史をもつ多くのくすりは家庭薬として代々受け継がれてきましたが、富山県の「置き薬」に続いて、全国に配置されるようになりました。

 滋賀県のくすりの歴史も古く、史実によりと、天智天皇が薬猟をされたという記録が残っています。さらに中世に入ると、織田信長が伊吹山麓に約50町歩の薬草園を開き、ポルトガルの宣教師からもたらされた植物を移植させた記録販売なども残っています。

 また、佐賀県でも古くから、「置き薬」の販売は行われていました。長崎にいたオランダ人から膏薬製造の秘法を習得して作られたという「唐人膏」がそのルーツといわれています。

 江戸時代から第二次世界大戦の頃まで、薬売りたちは、そのほとんどが真宗信者で、懐や行李の底に小さな仏像を納めて、全国を歩き回っていました。

「仏が照らしてくださる。見ていてくださる。聞いてくださる。決してひとりぼっちじゃない」と、心に念じることで、苦が苦にならず、死をも恐れない強い精神を作っていました。同時に、背中に仏を意識することで「仏の願いにしたがって顧客にくすりのご利益を与える。顧客は病気が治るというご利益に対して感謝の気持ちとして代金を支払う。それがくすりを与えた者に利益となって返ってくる」と考えていました。

 こうした商法は、顧客との間に「互いに利を分かち合う真心と感謝の結びつき」をより強固なものにし、人間関係が永続するという効果 をもたらしました。 「一代限りと思うな。孫の代まで続けるという心がけで、真心をこめて対応し、誠を尽くそう」 くすり売りの間で、親から子へ、子から孫へ、代々語り継がれてきた言葉ですが、これを実践するために打ち出されたのが「信用三本柱」です。

 三本柱とは「商いの信用」、「くすりの信用」、そしてもうひとつが「人の信用」です。 「商いの信用」の基本は、顧客との間にトラブルを起こさず、不正な商いをしないということです。一円の勘定も誤りなく正確に取引することで信頼関係が生まれます。 「くすりの信用」は、有効で安全な品質の高いくすりを提供することです。そのために、絶えず顧客の求めるくすりをリサーチし、品質開発に努めなければなりません。「人の信用」はもっとも重視されました。顧客の悩み相談に乗って、適切なアドバイスを行ったり、励ましたりすることで信頼関係が作られています。「くすりを売るのではなく、人間を売れ。顧客は人間を見てくすりを服用する。」という考え方が、人材開発を促し、販売の拡大をもたらしたのです。

 江戸時代に始まり、多くの販売員の努力によって、全国に確かな地位 を築いていった「置き薬」ですが、その歴史は苦難の連続でした。最初の大きな苦難は明治維新と同時に訪れました。中央集権体制をめざす明治政府の医薬行政は、西洋医学に基づく製薬の発展を期待し、漢方医学を根拠とし長い間、信用をかち取ってきた「おきぐすり」を滅亡の危機に立たせました。

 医療医薬の近代化を進める政府は、明治3年(1870年)12月には「売薬取締規則」が発布され、旧幕府の医学所であった大学東校での検査を受けて免状をもらわなければ営業できないことになりました。また、開発された有効な薬は7年間の専売を認めるという項目を設け、商品の改善をうながしました。

 明治10年(1877年)には、「売薬規則」によって売薬営業税や鑑札料などの税を定めて、売薬業界への圧力を強めました。さらに、明治政府は、西南戦争により財政の困難を補う為に明治16年1月から売薬印紙税を課してきました。これは、すべての薬に定価を付記し、その1割の額面 の収入印紙を貼らせることにしたもので売薬税とあわせ、業者には致命的な打撃となりました。

 この売薬印紙税は、40数年後の大正15年になってようやく廃止されましたが、その後も、昭和初年の経済恐慌、太平洋戦争の敗戦など苦難の歴史は続きました。

 昭和22年、戦時中の売薬統制が解かれ、自由にくすりを製造し、配置できるようになり、「置き薬」の製造や販売の組織づくりが行われましたが、戦後のインフレの影響で経営は苦境にたたされました。

 昭和30年代に入ると、薬業界全体の生産が活発になり、著しい伸びを示しましたが、昭和36年から始まった国民皆保険制の実施で、国民はちょっとした病気でも医者にかかるようになり、このため国民医療費の増大という新たな財政上の問題も浮上して参りました。

 こうした状況の中、軽い病気は自分で治すというセルフメディケーション(自己治療)の考えが徐々に浸透。薬や医学の情報、知識が豊富な現代人の健康管理に「置き薬」が一役買っています。

 

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薬の歴史と配置薬の沿革(薬の年表)

年代 主要事項 付記
古代
天然の草根木皮
単味→複味
神話、大国主の命と少彦名命
国づくり・療病の方
大国主の命と白兎
古方(和方)
前後漢
中国の医薬学が確立
漢方
朝鮮半島(新羅・百済)の医学
大陸の文化(薬物医術)入る
538年
仏教伝来
552年
医術・薬物の渡来
飛鳥時代
598年
聖徳太子(厩戸皇子)推古天皇に進言
薬物は民を養う要物なり、厚くこれを蓄うよう
611年
天皇、群臣を伴い宇陀地方へ薬狩り
(5月5日)
5月5日を毎年薬日と定めた
(菖蒲の節句)
701年
天武天皇、大宝律令の制定
医薬の制度
大学、典薬寮、薬園師、薬園生を置き
学生を教育
役ノ行者(小角)
山岳仏教の祖
陀羅尼助(オウバクエキス)
エキス製剤の始め
奈良時代
754年
唐の名僧 鑑真、来朝
唐招提寺(奈良・西ノ京)
奇効丸
丸剤の始め
756年
正倉院 御物
多数の薬物貯蔵
現在、尚、効果を失っていない。
鎌倉時代
1240年
西大寺(奈良)豊心丹
売薬の始まり
室町時代
南北朝時代以来、戦乱のため社寺が荒廃
復興資金のための施薬から売薬を始める
寺院が荒れ、民間に移行
家伝薬として温存、進歩した。
江戸時代
1683年
富山藩2代目前田正甫公、反魂丹の調製
岡山の医師万代常閑の伝授
1690年
江戸城において三春藩主秋田河内守の
腹痛を治して販売権を得る
「先用後利」を教えた
富山配置販売の始まり
1730年
森野薬草園(奈良県大宇陀町)
御所今住 蘇命散 三光丸
奈良の配置薬の始まり
甲賀 神教丸 万金丹
日野 感応丸
滋賀県の配置薬の始まり
鳥栖・田代地区 万金膏
鹿島地区 唐人膏
佐賀県の配置薬の始まり
1866年
仲間取締議定書連邦帳
現各都道府県協議会の前身
明治時代
1870年
売薬取締規制
1872年
売薬業者へ鑑札
1874年
医制
1877年
売薬規則
西洋医学万能時代に入る
1883年
売薬印紙税
業者反対運動
1886年
売薬印紙交換規則
大正時代
1914年
売薬法改正
1926年
売薬印紙税法廃止
業界全盛期にはいる
昭和時代
1933年
この頃より大陸に進出
薬学校の設立(昭和5年)
各生産県においては配置員の資質の
向上をはかる
1942年
売薬営業整備要項
昭和13年 国会総動員法による
1943年
薬事法制定
「売薬」の名称が消えた
1944年
国会において売薬にかえ「家庭薬」とする
メーカー等の企業合同販売規制
一戸一袋の実施
配置地区の割当を行う
1945年
終戦 業界復旧
1947年
薬事法の制定
1951年
都道府県協議会設立(1951~1952)
1961年
薬事法大改正
配置販売業の定義
1975年 製薬工業組合連合会組織
中小企業近代化促進法の業種指定
1976年
GMPの実施
医薬品製造並びに品質管理に関する規範
1982年
日本配置家庭薬商業組合設立
現代
2005年
日本置き薬協会設立
2006年
薬事法改正
登録販売者の新設
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