三光丸同盟会の濫觴

三光丸同盟会の濫觴

 明治32年(1899年)3月19日。いまから百年、一世紀の昔、大和売薬のなかでも歴史は古く、名薬とうたわれた「三光丸」を、広く世の中に売り広めている人たちの中島市三郎、中島源十郎、米田由松、川田滋美、藤井益蔵、喜多村庄八、中尾房治郎、的場源之介ら有力販売業者30余名と、三光丸製剤経営者の第31代米田徳七郎虎義とで話し合いが行われた。話し合いの中心議題は三光丸を昔のように、よく売れる薬に戻し、三光丸本店の財政を立て直し、併せて全業者の営業内容も大いに向上させることだった。明治政府の売薬政策下で、いま起きている諸問題、業者の商行為で改善すべき点、製剤経営者としての販売政策などを全部取りあげ、論議し、新しい指針を決めた。

三光丸を扱う業者全員で強固な団体を結成し、業界では初めての新鮮な条文によって、新団体の結成、地域割りの断行、現金売買主義の採用、商標厳守の制度など、従来の売約行商で見られなかった原則が明確に示された。

これまでの商慣習を打ち破る劃期的な規約文が提示され、これが「盟約書」にまとめあげられ、全員で承認可決され、さっそく施行に移された。

盟約書は本則13ヶ条、細則9ヶ条、追加(現金売買と利子標準)からなっている。さらそ、2年後に本則追加2ヶ条、細則追加7ヶ条からなっている。

 全文は下のとおり。行商人の氏名の下に捺印されている。加入者全員で署名捺印し、盟約書の厳守を誓っている。

三光丸同盟会の原型

 盟約書の内容について検討してみよう。まず、三光丸同盟会のはじまりと思われる団体についてである。この点については、明確ではない。第1条に「本盟約ニ加入シタル者ハ・・・」とあるが、加入する団体が何という名称の団体であるか明らかにされていない。第5条には「新ニ行商加盟ヲ欲スルモノハ」とあるが、ここにも団体の名称が当然出てくるところだが、出ていない。ところが、本則追加第2条には「・・・シタルトキハ行商人全体ノ協議ニヨリ除名スル事アルベシ」とあり、販売業者は原則として三光丸販売業者団体に加入していたわけだし、細則追加の第4条の3には「其他本団体ニ関スル」とか、第5条には「本団体ニ於ケル」とか、第6条にも「本団体ヨリ生ジタル財産」などと団体が存在することが推測される。この団体が現行の三光丸同盟会の前身である。しかし、この盟約書では明らかにされていない。したがって同盟会長もないわけで、団体運営に当たる役員としては参与(本則追加では協議員、特別員となる)評議員がおかれていた。

盟約書の目的

 米田徳七郎(第31代)が、弱冠20歳で三光丸の製薬経営者として中島市三郎はじめ請売業者らと洗い出した「業界の欠点とその対策」は次の諸項目だった。

1、盟約書に署名捺印

 三光丸の請売者たちが盟約書(後の三光丸同盟会に発展)に加入し、署名捺印することで厳粛に自覚をさせ、三光丸本店のため、また自分のために業績を飛躍的に発展させることを誓約させた。これによって販売業者を奮い立たせた。

 これまで業界内の仕事ぶりを見ていると、目標がなく、消極的な人が目立っていた。何十年間も仕事をしていても借金がなくならぬ人、手許に資金が残らず、希望が持てぬ人が多かった。

2、三光丸振興策

このためにはまつ先に地域割制を採用した。地域が重複すると、同じ三光丸を売る者が競争して、果てには乱売、値引きをして自分の首を絞めるようなことになる。このため本則第2条と細則第1条で地域を規定した。加盟した業者は自分の得意場所を何府県何郡と確実に大帳(台帳)に記入し、署名捺印しておく。本店でこの大帳を保管しており、配薬得意場所が二重、三重になることを防止する。

 得意場所は「郡単位」だった。現在では得意場所が臨接して、一つの市町村内でも数人の業者が入りまじるようになったが、明治32年のころは、郡単位で場所割りができ、問題はなかったようだ。

 これで業者同志で、価格競争といった不当競争の弊害をまぬかれ、安心して商売ができるため、消費者からの信頼も深く、厚くなっていった。

 地域割りをすれば、過当競争がなくなり、相当の利益を確保することができ、安心して商売できる効果がある。これは、だれにでも判っていたが、実際には江戸時代以降長期間にわたって実現しなかった。実施しても失敗したようで、だれが実施するかが課題だった。この点ついては、富山県の場合は、昔から販売業者の発言権が強く、販売優先だったので、実施は不可能だったのだろう。もしもこの占だ気付いた業者がいて、郡単位でもいいのだが地域割りを提言し、大帳のようなものを実行していたら、業界は全くちがったものになっていただろう。大和では、生産者の立場が強かったためか、生産者の呼びかけで初めて三光丸で実現した。

 三光丸の場合。希代の経営者として経済界にその手腕が知られるようになる米田徳七郎虎義が第31代当主に就任して以来、窮迫した本店の財政状態を切りぬけるという背水の陣からぬけ出すための、起死回生の手段だったにせよ、全参加業者に呼びかけて強力な団体にして実行したので奏功したと思われる。見事に生産・販売の双方が再生復興への道を歩みだした。

 三光丸の”復興“の原動力となったのは、この地域割りと次の現金売買主義の2つだったといわれる。

3、現金売買主義

 おそらく当時でも無借金主義につらなる現金主義の経営原則はあっただろうが、しかし「先用後利」を実施しているこの業界では、販売代金が半年先から1年先、あるいは2年、3年先と遅れて入るのであるから、現金仕入れを実施するのは困難がある。だが、それを加盟者全員で実施したのは奇跡に近いことである。

 三光丸の仕入れ代金にとどまらず、本店の原材料仕入れ代金をはじめとし、あらゆる支払いに適用したのである。

 現金主義を実行する基礎は、細則の最後に「追加」として記入されている「薬剤ハ凡テ現金ト引換トス」の一行によるものである。そうすると、売薬行商人が仕入れに行くときは、必ず現金、小切手を持参しなくてはならぬが、例外を認めていたようである。そのため「但シ貸売ハ協議ノ上相当ノ利子ヲ附スモノトス 利子ハ末尾ニ記載ス」としている。

 明治32年度の利子は、条文の末尾にあるように「1ヶ月金壱円ニ付壱銭ニ確定候」とある。1ヶ年支払いを延ばしたら元利共1円12銭支払うことになる。利率にすると12%である。銀行の貸し付け金利より高目にしている。仕入れた者にしては、銀行から借りるとか、銀行の定期預金利息を払って親類、縁者から借りてでも仕入れ代金を現金で支払った方が有利なようにしている。

 また、現金の支払い決済の期間を60日間と決めていて、その日までに支払った者には、現金支払いの報奨金として銀行の定期預金と同率ぐらいを還付していた。名実共に現金で決済する方が買掛金にして後日支払うよりも、本人にとって有利というわけだ。集金してきてから決済するのが当然とみられていた当時の業界にとっては大改革だった。

 この現金売買主義がすばらしい成績をあげ、経営危機に瀕していた三光丸本店の財務内容を一気に改善し、また加盟した業者の経営内容を大幅に向上させた。現在まで同盟会員の資産蓄積に大いに役立っていることは周知の事実である。

4、商標厳守と新付の奨励

  三光丸の商標である「日月星印」は、日の光、月の光、星の光、すなわちこの宇宙を意味し、この宇宙の中で最もよく効いたので、三光丸と命名されたと伝えられている。全国どこで販売する場合でも「日月星印」の商標を用いることとし、この商号のあるところに三光丸はある。三光丸を売る者は「日月星印」の商標を掲げるという義務がある。そして、三光丸販売の経営上の理由からも、三光丸を重点的に販売する方が有利として、商標の厳守が要請されている。

  さらに、地域割りをしたため、競争心がなくなり、経営が消極的になるのを防止することが考えられ、新付けをしないでいると除名されるといった規定がある。地域割りの中で寝てしまう者の眠りをさまさせるためである。

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